お別れ
僕が涙脆いのは母譲りなんだろう。
こんな所でも両親の似たところというのは兄妹に別々に遺伝するのか、父と妹は実に淡白だった。
自分と母で一つ違うのは、母は人前で声を上げて泣くことが出来るのだ。愛猫の死に直面出来るその勇気は自分には無い。つらく哀しくない訳ではない、別れに立ち会えないほど不躾でもなく、別れを直ぐに呑込めるほど寛容でもない自分が情け無い。両極端であればどれだけ気が楽なのだろうか。
だから今は、そんな母が至極羨ましいと感じてしまう。
事ある毎に理由を付けて実家を遠ざけ、愛猫の病床に満足に付き添えなかった自分が恥ずかしい。万人に待つ恐怖と対面するのが怖くて仕方が無かった、認知症の祖父との面会を避けていた理由もそうだ。
それに彼女の遺体を前にして、死後硬直だとかアクトミオシンやらの今では無駄な知識が先行したおかげか、冷たく硬くなった体への理解は頭では出来たので対面しても泣き崩れることも無かった。
思い出よりも知識が先に来てしまうのは何故なのか、自分はどこかおかしいのだろうかと自問自答しても答えは出ない。
思えば彼女に名前を付けたのは自分だった。
初めて来た雄猫には懸命に名前を考えていたにも関わらず、妹の適当な発言からマルと名付けられてしまったのでその反動から次の子は絶対に名前を付けると意地を張っていたからだと思う。そうして彼女には「次」という意味と語感から連と名付けた。
八年前は小さくてすばしっこく、食卓のパンを盗んでは二階の寝室で食い散らかしていたような事も記憶に新しい。成長してもビビリは治らず家猫なのに外に出ればすぐに帰って来てしまうし、家族以外が家に上がろうものなら夕飯時までその顔を見せることはなかった。
東日本大震災の時に慌てて家に帰って探してもどこにも見つからず、洗濯機の裏で小さく丸まっていた可愛げな姿で自分の恐怖心も和らいだ。
いつでも陽の当たるところで寝て、気ままに起きて、容赦なく寝てる人間の顔を踏んでご飯を要求したり、遊べと咥えてきたおもちゃを振ってやってもすぐに飽きてどこかに隠れてしまう、彼女の気分のままに付き合わされてロクに抱っこもさせない。そんな彼女は本当に猫らしく、誰にも感化されないような良い意味でプライドの高い気風のある猫だった。
そんな彼女の死の淵に俺はありがとうの一言も満足に言えなかった、言ってしまえば堰を切ったかのように声を上げてしまうに違いないから。
だから齢8歳にして病気で逝ってしまった連の命は、絶対に忘れずに自分が代わりに連ねていこうと思う。
悔いても悔いても悔い足りないけれど、後悔したままでは彼女に申し訳が立たない。とりあえずはこの記事をもって気持ちを切り替えます。
本当にありがとうな。